寝ぼけながらインターネットの怪談を読んでいて、金縛りにあったウェイトレスが未知の存在を見てしまうのだが、それまでの「待っている時間」に恐怖の成分が充実しているな、とぼんやり思った。私はその日は休日だったが、会社の上司とお世話になっているお客さんとの食事に参加するという予定を組んでしまい、気分を重くして仮眠していた。もう準備しないといけない、もう出ないといけないという時間が来るのを私も待っていた。寝ぼけているときはなぜか妙に前向きになっているときもあって、この待つという恐怖・苦しみに焦点を当てて、それなら攻めていきたいな、というアイディアが浮かんだ。
待つという恐怖は餓狼伝のサクラや刃牙二部でもガイアが論じていた。個人的な体験でも思い当たるものがある。学校に通っていた時期、所定の時間を過ぎて登校しても特にペナルティはないのだがやはり遅刻はしたくない。しかし、ある時期遅刻しなかった日はないということがあった。「今家を出てももう間に合わない」という時間が来るのを学校に恐怖しながら待っていた。その時間が来ると、少し体は軽くなって登校できたりする。毎日時間切れをずっと待っていた。
待つのをやめて攻めたいというのはシンプルなアイディアだが、具体的に何をするのか考える。行動すれば大抵どうにかなるのは知っている(それはとても恵まれたことだと思う)。出発時間が来るのを重い気分で待つくらいなら、さっさと準備して目的地に行ってみるか、時間が余ったら入ったことのない店に入ってみようか、読んでいない本を読むか。
もっと大きな時間で考えても、私は何かを待っていて、表面的には痛み苦しみを感じてはいないが、待つことによって縛られている気もする。「〇〇さえできれば私はOKだ」「〇〇出来なかったら私は駄目だ」という状態は精神科医の名越先生の定義では神経症的だという。創造的な仕事や趣味にも、魅力的な体験・経験という意味では海外旅行にも漠然とした憧れや執着がある。そのためには金がないと、休みがないと、タイミングがないと、目的がないと(実際目的がないために馬鹿らしい失敗はしたと思う)、英語ができるまでは、これが一区切りつかないと、と何かを待っていることで実行には移れそうもない。
待つことをやめるということは、やや区切りすぎな私の世界を少し溶かして、混ぜようということになるのかなと思う。この間喫茶店に行ってコーヒーを待っている間、店内のライトや砂糖入れをシャーペンでメモ紙にさらさらとスケッチした。私からすれば、スケッチできたという感じだった。なんらか絵を描こうというときには、スケッチブックを持って、鉛筆は全部削って、絵具のパレットは二つ持って、筆洗のバケツを持って、大抵使わない筆を持って、長い戦いになるからと軽食を持って、折りたたみ椅子を持って、大きな鞄に詰めて・・・準備に時間がかかって出発が遅くなって、動物園の閉園時間が気になりながら何を描こうかとぐるぐる回って、描きたいものは特になくて、食堂に入ったりしてカレーを食べて、眠くなって結局ほとんど描かずに帰ってくるという体たらくだった。「〇〇するには〇〇」という決まりを少し溶かして、流動的に、軽く攻めて行ったらどうかと思う。自分が今何かを待っているなと思ったら、このことを思い出したい。そのとき不合理な、目的のよくわからない、ヘンなふるまいをすることになると思う。でも、不合理、無目的、ヘンでも良い。